石原まき子さん(86歳 2020年7月現在)とは、どんな方だったのでしょう。
若い頃は女優さんだったというので、若い頃の画像を見てみましょう。
また、亡き夫の、石原裕次郎さんとの出会いはいつで、どんな感じだったのでしょう。
石原まき子の若い頃が可愛い!
【画像】日活の女優さんだった!
石原まき子さんとは、石原裕次郎さんの妻にあたります。
こちらは石原裕次郎さん。
肝臓がんで52歳の若さで逝去されました。

こちらが奥様の、石原まき子さん。


現在は、株式会社石原プロモーションという、石原裕次郎さんが設立した芸能事務所の代表取締役会長を務めています。
この事務所の俳優さん達は、『石原軍団』とも呼ばれています。
石原まき子さんは、裕次郎さんと結婚する前は、日活の女優さんでした。
芸名は、北原三枝という名前で、活躍をされてました。

女優さんだけに、やはりお綺麗です。
若い頃の写真は?
まき子さんがお若い頃の姿を見てみましょう。



目力もあり、凛々しい姿の女優さんですね。
石原裕次郎の出会いや馴初めは?遺言とは?
出会いは映画『狂った果実』!
石原裕次郎さんとまき子さんの出会いは、1956年に出演された映画『狂った果実』になります。
この映画は、裕次郎さんの兄である、石原慎太郎さんの同名小説を映画化した作品です。
あらすじはというと、真夏の鎌倉を舞台に、同じ女性を愛してしまった兄弟の悲劇を描いています。
兄役に、石原裕次郎さん。

うぶな弟役に、津川雅彦さんで兄弟を演じました。
映画の中で四角関係になる女性がいます。
兄弟で1人の女性を奪い合うのですが、その女性役に、北原三枝さん(石原まき子)が出演されてました。

まき子さんは裕次郎に一目ぼれ!?
まき子(北原三枝)さんは、1933年7月23日生まれ。
『狂った果実』出演時は23歳でした。
裕次郎さんは、1934年12月28日生まれの当時22歳。
裕次郎さんのデビュー作が『太陽の季節』という映画でしたが、2作目の『狂った果実』での出演が決まった際、日活のスタジオで2人は出会いました。
裕次郎さんのデビュー前から、まき子さんは女優さんとして活躍をされてました。
そしてスタジオにて初めて、まだ殆ど無名の石原裕次郎さんを見たとき、まき子さんは恋に落ちてしまったのです。
一目ぼれですね。
きっと、裕次郎さんが素敵だったのでしょう。
そして、実は裕次郎さんも、高校生の時から北原三枝さん(まき子)さんのファンだったのです。
そんな裕次郎さんは、北原三枝さん(まき子)に会いたいと、プロデューサーに伝えていたというのです。
念願かなっての共演が果たせた裕次郎さん。
まき子さんも、裕次郎さんに一目ぼれというので、ミラクルですね。
その後、2人の共演作が続きました。
2人は、この『狂った果実』の共演時から、ひそかに交際を始めていたというのです。
その後2人は出合ってから4年後に結婚し、まき子さんは女優業を引退し、裕次郎さんを支える為に家庭に入りました。
石原裕次郎の遺言とは?
2020年7月に、株式会社石原プロモーションが2021年1月に解散する事になりました。
所属俳優のマネジメント業務を終了することになったのです。
裕次郎さんが設立してから、約50年間経営をしていた事務所です。
裕次郎さんが亡くなってからは、まき子さんが30年間引き継いでいました。
52歳の若さで逝去された石原裕次郎さんですが、当時、まき子さんに残しておいた遺言がありました。
「俺が死んだら即会社をたたみなさい」という遺言でした。
しかし、裕次郎さんが亡くなった当時、まき子さんはその通りに出来なかったのです。
なぜならば、残された俳優の方々の為だったのです。
俳優さん、スタッフの皆さんはいつも生き生きとされていて会社に対する愛情の強さがひしひしと感じられ、この人達ならば会社を、お任せするべきと思い、遺言を言い出す事が出来なくなっておりました。
言い出すタイミングを失っていたのですね。
そして、まき子さんも86歳という年齢になり、体力的な問題が出てきたそうです。
私も高齢と体力の低下により実務が難しくなる事が多くなって参りました。そこで渡さん、舘さん、神田さん、役員、スタッフの皆さんに相談いたしました。
「裕次郎さんらしく惜しまれるうちに株式会社石原プロモーションの商号を返しても裕次郎さんは承知してくれるのではないですか」と賛同を頂きましたここで遺言を実行いたしました。
所属事務所の俳優さん達は、それぞれの道を歩む事になりました。
まとめ
北原三枝さん(石原まき子)の若い頃が可愛かったですね。
また、2人の出会いとなった作品は『狂った果実』でした。
石原軍団も解散となってしまうのは寂しいですが、裕次郎さんが逝去された30年後に、遺言を果たせました。
今後、石原軍団を卒業された後も、それぞれの俳優の方の活躍が楽しみです。